読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

村上春樹氏のこと

村上春樹氏がネットで質問を受け付けて回答してくれる新潮社の企画サイト「村上さんのところ」。せっかくなので私も質問してみたのですが、なんと返答を頂けてしまいました。どの質問なのかは秘密ですが。いやはや、素直に嬉しいです。

あれこれと国内外の文学作品を手にしている私ですが、村上春樹の作品もだいたいは読んではいるので、今回は自分なりの村上春樹氏に関する考えをつらつらと書いてみたいと思います。

 

文体について話題になることが多い村上春樹氏ですが、戦後の日本文学の中では人間個人のあり方を探ろうとした夏目漱石の後継として評価されるべきなのではないかと考えています。敗戦の反動として生み出された大江健三郎三島由紀夫らの文学の潮流に大きな転換をもたらしたのだと思います。文学版の「もはや戦後ではない」というわけです。

では、村上春樹氏の源流が日本の文学かといえば、そうではありません。彼の源流は、海外の文学作品の翻訳を多く手掛けていることから推測されるのですが、アメリカのロストジェネレーションなのではないでしょうか。

私はそのロスジェネ文学が大好物です。その魅力は、大戦で信用できなくなった人間そのものを根本から見つめなおすために準備された、登場人物達に課せられる苦難の重さにあります。その重厚さ故に、読了後の余韻も一段と深いのです。

では、一見軟派な村上春樹の作品が何故ロスジェネの重厚さを継承することができるのでしょうか。それは、主人公を軟弱化すると同時に立ち向かうべき敵を曖昧にすることで実現しているのだと思います。ヘミングウェイの作品は強靭な主人公が手強い困難に立ち向かい人間の精神力を見せ付けようとしますが、村上春樹の作品では主人公の意志が、彼を飲み込もうとする人間の価値を棄損するシステムに抵抗しようとします。

この村上春樹の小説技術の効果は絶大です。ロスジェネ文学の欠点に、現実の読者とは乖離した極端な仕様の登場人物がもたらす自己投影の難しさが挙げられます。村上春樹は主人公を読者に近づけているのでこの問題は発生しません。さらに、立ち向かうべき敵を明確にしないことによって、主人公に強いる緊張感を維持しています。ですので読んでて飽きません。こうした構成の妙が、村上春樹の小説における文学的価値と商業的成功の両立を可能にしているのだと思います。

 

しかし、昨今の社会問題の変質を鑑みると、村上春樹の文学的な価値は逓減し続けているというのが正直な感想です。格差固定化、共同体の多様化、地域コミュニティの縮小、なにかと分断に向いつつある今日的な社会全体の課題に、村上春樹の「僕」は残念ながら何の助けにもなりません。ハルキストに対する蔑視には、こうした問題を憂うことをしない者達への苛立ちが根源にあるのではないかと思います。

今の時代、文学の地位は低くなる一方ですが、それに追い討ちをかけているのが個人の物語を追い続ける現代文学の内向性ではないかと思います。ロスジェネ文学では強い個人の物語も多いのですが、同時に優れた群像劇も多いのです。日本の文学が今一度ロスジェネに立ち戻れば、今度は群像の力強さを手に入れられるのかも知れません。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)