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初代アイマスが終焉する前に

ということで、今まではちょっとムッツリ真面目なエントリーを書いてきたのですが、今回はアイドルマスターの話です。

 

諸々すっとばして結論から申し上げると、アイドルマスターというコンテンツが持つ力の根源はプロデューサー諸兄のアイドルを仲介とした自分語りを補助する仕組みにあるのではないかと考えています。そこにマネタイズのポイントがあり、会話のための「ネタ」を仕入れるために我々は金を払っている側面があると思います。それだけだと他の数多ある萌えコンテンツと変わらないのですが、アイマスが優れているのはキャラクター構成の特質上アイドルの属性が散らしてあって、結果として幅広いプロデューサー層を獲得しているという点です。それがアイドル達に対する多彩な解釈を呼び寄せ、彼女達の魅力を豊かなものにし、日々飽く事なく新たな発見を互いにもたらしてくれていたのではないかと私は考えています。高度に商業化された男子寮トークみたいなところもありますからね。

コミュニティの形成という点だけであれば他にも代替はあるかもしれません。それに、そもそも都合よく容姿の優れた少女ばかりがいる世界など非現実も甚だしいと否定されるかも知れません。それでも私はこう考えるわけです。かわいいアイドルばかりという特異点を除くと、そこには完全に平等な戦場が横たわっているわけです。アイドルを媒体として、それこそ年齢や社会的地位といった差異を無に帰すステージがあるわけです。彼女達に導かれるかたちで、普段の生活では接点を持ち得ない人の考えに触れる機会を得られるわけです。社会に出て娑婆の断絶のようなものを知ってしまうと、こうしたコミュニティの存在が奇跡のように思われるのです。アイドルを媒体にして今まで全く共通項を持たなかった人同士が同じ物事について語り合えるというのは、救いのある話ではないでしょうか。

考え方によっては厳しい世界でもあります。それに拍車をかけるのが彼女達の仮想アイドルという在り方です。実在のアイドルの粗相は諦めれば済みます。ところが仮想アイドルではそんな簡単に済ませてはくれません。もし貴方の語るアイドルがつまらなければ、それはダイレクトに貴方がつまらないということになります。なんて、気にしだすと何も言えなくなりますのでなおのこと辛いです。でもプロデューサーですからね。人から与えられたアイドルを受身で消費して、アイマス飽きましたというのも寂しい話です。アイマスはその人を映す鏡のようなところがあって、自分から働きかけなくては鈍るコンテンツなのだと思います。

ただアイマスは娯楽ですので、喧嘩というよりはスポーツとしてパッケージングされたボクシングのようなものかもしれません。アイドルという薄い皮を被ったオッサン達が素手で殴りあっている。これがアイマスの世界から覗いた現実世界の姿なのかも知れません。上手い比喩ではないのですが、アウトプットは皆様が表現するかわいいアイドルですし、これほど面白い娯楽はないと思うわけですよ。

ところで、よく他人の表現するアイドルにケチをつける方がいますよね。あまりの乖離があれば仕方がないことかも知れませんが、基本的にアイマスはアイドルを媒体として他人との考え方の差異を楽しむ娯楽だと思っているので、そういう方を見かけると「ああ、アイマスが下手な人だな」なんて残念に思うわけです。世の中、物事の考え方を合わせなくては組織として機能しませんが、アイマスは様々な発想がその世界を拡げてくれるので、寛容を是とした方が愉しめるものでしょうから。

 

そんなアイマスを支えてきた初代13名のアイドル達にも、すっかり秋風が吹いているような雰囲気になっています。これはモゲマスやグリマスの台頭や次世代ゲームの計画とは、別問題ではなかろうかと考えています。悲観的で申し訳ないのですが、キャラクターとして彼女達の寿命が近づいているのではないかと思います。仮想アイドルは死んだりはしないと考えるのが普通ですが、彼女達を巡る言説が枯渇すれば、彼女達ははたしてどうなるでしょうか?

思えば彼女達については多くが語られました。それでも未だ話足りない方もいるでしょう。しかし、そんな状況に追い討ちをかけたのがアニマスだったのではないかと思います。アニマスで動く彼女達のストーリーは我々を魅了しましたが、その祭りが終焉した後、改めて自らのアイドルに対する新たな解釈を問いかける言葉は必要とされなくなったのではないでしょうか。さらにアニマスでは1年というアイマスの貴重なリソースである時間軸を限界まで押し進めてしまいます。この状況下で、彼女達の独自のストーリーを提示しようとするプロデューサーは少なかったのではないかと思います。その後、アイドルではなく、アニマスに対する議論は続きました。アイマス民の城壁が破られアイカツの侵攻を許したのは、その議論が一段落した頃合だったと思います。知らない間に受身であることに慣らされていたのでしょう。

いくつかのゲームが市場に投入されましたが、この状況を変えることはできませんでした。Shiny FestaやShiny TVは初代アイマスの世界観を手軽なゲームとしてパッケージングすることに成功したものの、彼女達の新しい側面が打ち出されることはありませんでした。新たな議論を呼ばなかったので、当然の帰結だと思われます。

他のコンテンツに押されている間は、実は未だ大丈夫なのではないかと思っています。本当に恐れるべきはアイマスからアイマスへの移行でしょう。語りつくされ言説を生む力を失いつつある初代が引き下がったステージに、新世代のアイドル達が躍り出る時が来るでしょう。そこで沸き上がる歓声の渦の中で、初代アイドル達についての語りが途絶えてしまったが最後、初代のアイドル達が一瞬地上から消え去ってしまうような瞬間が来るのではないかと考えてしまうわけです。杞憂なら、いいんですけどね。

 

と、以上までを劇場版アイドルマスターが上映される前に公開したかったのですが、間に合いませんでした。一応観てきて、よくできていると思いましたが、私の関心は映画の外です。悲しいことに、予想していた通り、劇マス(という略し方でいいの?)に関する感想はネットに溢れ出てくるものの、アイドルに対する想いは見かけなくなったような気がします。その代わり、劇マスの分析にはプロデューサー総動員令でも発動されたかのような熱を感じます。ネタに飢えていたのだと思います。ではその熱が冷めた後に、何が残るでしょう?

公式が提供するものの中で遊ぶのが粋な遊び方だとは思います。ただ、想像していたよりも公式から打ち出されたメッセージは厳しく、さらに時間軸は進み、彼女達は逞しく成長し、次世代の輪郭も明確になり、「もう初代のプロデューサーは要らないといわれているのだな」と私には受け取れてしまうのです。そして、不完全な少女を愛でることに慣れてしまっていた私は、劇中のグリマスアイドルに惹かれてしまいます。巧妙ですね。本当に幾重にも幾重にも考え抜かれた映画だと思います。

でも、入場時に貰ったグリマスのステッカーは席に置いて帰ってきました。まだ、グリマスのアイドルについてはよく知らないのです。私にとっては、お気に入りのキャラクターの有無が問題ではなく、その「属性の散らし方」が評価のポイントなので、今の時点では何とも言えません。ただ、彼女達のキャラクター構成からマジョリティにとって不都合なマイノリティが除外されていることがあれば、自分にとってのアイマスの魅力は半減してしまうのだろうなと思います。これも杞憂であることを願っています。

あと、プロデューサーの皆様へ。捻くれたことを申しておりますが、劇マスはよい映画です。ただ、「確かに劇マスは良いけど、自分が担当しているアイドルにはこういう良い所もあるんだ」と言いたい気持はありませんか?もしかすると、劇マス賛美の中で、そういう発言がしにくい雰囲気を感じているのかもしれません。公式が描いたアイマスに反論するのは身の程知らずだと他人から批判されることを恐れていらっしゃるのかも知れません。

でも、それは許されるべきでしょう。聞かせてくださいよ、貴方のアイドルの話を。何もできやしませんが、応援します。させてください。ですので躊躇しないでください。お輝きの向こう側から帰還して、「とはいえ、やっぱり担当アイドルのことを一番分かっているのは俺だ」という厚かましい想いが湧き出てきたなら、それこそがプロデューサーの証なのですから。